琉球古武道

琉球古武道の歴史

琉球古武道の沿革

琉球における武道はすべて口伝により今日に至っており、その発生については明確な年代・体系が判然としておりまません。ただ『沖縄一千年史』(大正十二年・真境名安興)に、西暦1314年頃琉球の三山割処の戦国時代当時の武将(按司)が使用した棒の模型が明記されており、また、西暦1614年に生まれた琉球の南宗画家「自了」の伝記にも、慶長時代に槍拳法があった事が記されております。これを見ましてもその時代に既に棒法その他の武術が研究されていた事が察知されます。そして更に考えられる事は、これらの武術も空手同様に、同時代頃世界に誇った中国武術が輸入され、その影響のもとに種々改良が加えられたであろうという事であります。この中国武術が琉球本来の武術に合流し研究され、そのうえ尚真王の文治政策、島津家の一切の武器取り上げの二回の禁武政策とあいまってこれら武術の研究に拍車をかけ、現在に伝わる琉球独特の武術となったのではないかという事であります。

この事は佐久川の混の考案者佐久川先生が、棒術の研究のために中国に渡られた事等によって諒知されます。かようにして発展して来た古武道は、過去においては道場とてなく、各修業者がそれぞれに師を求め、師匠は研究心に富み且つ素養のある真面目な者を選んで指導したのでありますが、時代の推移と共に地方的発展を遂げ、一時は華やかな隆盛を極め、琉球においては山間僻地にまで滲透普及し、今日においてもなお地方的な棒踊りとして親しまれておりますことは当時の隆盛の面影を残していると申せましょう。しかしながら隆盛を誇った古武道も、西洋文化の急激な輸入と、武器を持って身を守る必要のない社会となって古武道が実生活に即応しないこと等が原因となり、昭和初頭以来衰退し始め、現在では極少数の人々の間でのみ稽古が積まれておるにすぎません。

かように衰退した古武道も、最近著者が沖縄および日本内地の各空手道場を歴訪した際、各所で古武道の指導を請われ、古武道の精神的意義・体育的意義を再認識され、漸次再び注目されてまいりました事は欣快にたえないところであります。

ここに古武道研究者諸君のために近世の古武道大家を列記し、今後の研究資料に資したいと思います。

そえいし
添石先生(百年以上)

添石先生は首里の大名で殊に棒術を種々研究され、添石の混、梢雲の棍を編み出されております。

ちねん
知念先生(百年前)

知念志喜屋仲先生は、最初添石先生の下男奉公を務めておりましたが、武術が好きでたまたま添石先生の棒術の練習されているのを見て、密かに研究されているところ添石先生が発見され、知念先生の熱心さに感激し棒術の研究を許可されたのであります。知念志喜屋仲の棍は先生の研究の結晶であるといわれております。

つけんこうらぐわ
津堅幸良小先生

先生については唯棒術の大家と列挙されているのみで詳細に記述されたものがありませんが、浦添の棍幸良小流の釵術を考案されたとのことであります。

おやけあかはち
親屋慶赤蜂先生(約二百年前)

先生は八重山きっての棒術の達人であったとの伝説が残っています。

津堅先生(百年前)

津堅端多小の混を考案された先生で、種々研究されたのでありますが津堅端多小の棍は先生の代表的研究の結実であり、逆手棒であるところが特色であります。

佐久川先生(百年以前)

首里赤田の出身で棒術の大家として種々研究を積まれたが、なおも研究すべく中国に渡られ、中国棒術其の他の武術を研究して帰国、佐久川の棍その他の棒術を考案されたのであります。先生の棒術は勇猛果敢な気風が漲っている点に特色があったといわれております。

宮里先生(百年以前)

宮里先生は中国に渡って研究されたという記録のみが残っているだけで、其の他の事については明瞭な記録がありません。しかし豪力無双の達人宮里棒として知られています。

ぎのわんどんち
宜野湾殿内先生(百年前)

先生は佐久川先生の薫陶を受け、佐久川先生の逸材といわれ、力の強かった事でも有名であります。棒と釵の名人といわれております。

末吉先生(百年以内)

詳細については不明でありますが、末吉の棍は先生が考案されたものであるといわれております。

当山先生(百年以内)

当山流棒術の流祖で、当山の棍を考案されております。

なかんだかり
仲村渠の爺(百年以内)

仲村渠先生は棒術の大家と呼ばれているが、その流派は不明であります。

山根流の知念先生(百年以内)

先生は各先生の混を良く研究され、特に白樽の混・米川の棍(左 棒)を考案されております。門下には大城朝恕先生・屋比久孟伝先生等斯界の逸材を多数輩出されております。

新垣先生(百年以内)

近世における棒術界の花形とも言われる新垣流の流祖で棒術・釵術の達人であります。

古武道の種目

古武道の起源如何は文献の皆無により明記し得ないのでありますが、型の名称は考案した先生の姓を取ってつけたものが多いようであります。元来、古武道にはそれぞれ相当数の型が存在した事と思われますが、指導機関の不備その他の理由により師範一代で終わったり或いは忘却されてその存在すら判明されないのが相当あって、現在は後記のような型が一例として残されております。

1、棒術

周氏の棍   佐久川の棍  梢雲の棍  白樽の棍  米川の棍  知念志喜屋仲の棍

瀬底の棍   浦添の棍    末吉の棍  添石の棍  九尺棒

2、釵術

津堅志多伯の釵  多和田の釵  北谷屋良の釵

端多川幸良小の釵   浜比嘉の釵  屋可阿の釵

3、トンファー術

4、ヌンチャク術

5、スルジン術

6、ティンベー術

7、二丁鎌術

トンファー ヌンチャク

二丁鎌 鎖鎌

平 信賢先生の琉球古武術に関する最大のご功績は、空手と双壁に位置付けられる琉球の武器術の衰微を憂慮し、沖縄各地に残存埋没していた武器術の型を探し求め、ついに八種の武器からなる計四十二の型を集大成されたことである。
そして、こられの型は、当時保存に努めておられた沖縄各地の長老の先生方との型合わせの成果を含め、沖縄に継承されていた武器術の型のすべといっても過言ではない。

参考資料
新編・増補 琉球古武道大艦 より抜粋
著者 平信賢 発行者 武石和実
発行所 榕樹書林 098-893-4076

(2009年8月26日更新)